良い知らせと悪い知らせがある

良い知らせと悪い知らせがある

本当に良い映画も、良くない映画もレビューします。

「泣ける映画」は「抜けるAV」と同じだ。「泣ける映画」が下品な理由。

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筆者の厳選記事5選

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「全米が泣いた」「泣ける映画」といった宣伝文句、劇場ですすり泣く観客を映す暗視カメラ、「めっちゃ泣きました〜」という感想を述べる観客の姿を映したコマーシャル…

あ〜気持ち悪い。

ぼくは自宅にテレビを置いていないので、最近のコマーシャル事情はわからないんですが、今でもこういった「泣ける映画」推しの宣伝ってやってるんでしょうかね。

そうであれば、実にいまいましい事態です。

今回の記事では、ぼくの大嫌いな「泣ける映画」という表現について、思うところを書いていきたいと思います。

ちなみに、ぼくも映画で結果的に「泣いた」ことはあります。でも、「泣ける」映画と「泣いた」映画は違いますよね。ぼくは泣きに行くために映画館に足を運ぶことはありませんし、泣くためのツールとして映画を捉える考え方そのものが気持ち悪いと思っているだけで、映画で泣くという行為じたいを否定するものではありません。

 

心底ガッカリした『スタンド・バイ・ミードラえもん』

当時は「ドラ泣き」なんて宣伝文句がテレビを駆け巡ってましたけど、ぼくの大好きなドラえもんが、映画を泣くためのツールとしか思っていない消費者に消費されていくのかと、悲しい思いすらありました。

そもそも製作者側が、映画を作品から消耗品にしちゃったのが『スタンド・バイ・ミードラえもん』だったんですよ。

おそらく、配給会社や広告関係者などから、要望があったんでしょう。「観客が泣ける映画を『ドラえもん』でつくりましょう」みたいな。いやいや、こんな馬鹿らしいことはない。

「不覚にも、素晴らしいシーンで観客が泣いてしまった」。こういう経験をした人は多いと思います。それは人の死だとか、別れだとかいうベタなシーンに限らず、何気ない日常の風景を切り取ったワンシーンであったり、はたまた圧倒的なスケールで描かれた戦いのシーンであったり。思いがけないところで心をわしづかみにされるからこそ、映画で自然に涙が出てくるってものでしょう。

そういったものをさり気なく盛り込むのが、映画であり、クリエイターの仕事であるにもかかわらず、はじめから泣かせる目的のシーンを撮るなんて、興ざめするにも程がありますよね。

『スタンド・バイ・ミードラえもん』にしても、あんな総集編的な作品をわざわざ3D映画にすることに、どれだけの価値があったのか。ドラえもんで泣きたいんだったら、文庫版の『ドラえもん 感動編』で済む話でしょ。

わざわざ泣ける話だけ集めて、大層な3Dアニメで描く意味があったんでしょうか。(3Dによってひみつ道具の「未来感」は上手く表現されていたと思うが)

もちろん、『スタンド・バイ・ミードラえもん』の監督は原作を読み込み、そのなかでも「泣ける」エピソードを引っ張って来られたのでしょう。山崎貴監督は『ALWAYS 三丁目の夕日』で成功された監督だから、思い出補正を強化し、感動を引き出す手法に長けておられることも、想像に難くない。

それでも、『スタンド・バイ・ミードラえもん』が原作『ドラえもん』にまったくと言っていいほど及ばないのは、「泣ける」エピソードだけが『ドラえもん』を名作たらしめているのではないからです。

ドラえもんが面白いのは、子どもの「あんなこといいな」をひみつ道具で実現してしまうファンタジーであり、いじめられっ子だったり、不自由さを感じていたりするのび太が、思いのままにふるまう爽快さであり、それによって「一時的には万能感を得たとしても、最終的には自分の力で道を切り開かねば、真に幸せな未来はやってこない」というメッセージにあります。

「泣ける」エピソードは、それのほんの一部に過ぎないし、「さようならドラえもん」「帰ってきたドラえもん」「のび太の結婚前夜」は、藤子先生が読者を泣かせることを意図して書いたエピソードではないはず。

『スタンド・バイ・ミードラえもん』および「ドラ泣き」が、一部で「下品」と言われるのも、「泣ける」という客寄せの宣伝文句に頼ってしまった点であり、本当に映画が好きで、作品として映画を愛する人たちの反感を買った結果であると言えます。

 

「泣ける映画」は「抜けるAV」と同じだ

アダルトビデオは、ざっくりといえば男性が股間を膨らますためのものであり、男性の性欲を刺激して、お金を落とさせるものです。でも、そこにはちゃんとした「作品性」がある。女優のインタビューから男優との絡み、前戯、本番、撮影後の感想…という作法に則って撮影されていく。本当に抜かせるだけのAVなら、総集編だけ作っちゃえばいいわけですからね。

それに、AVを「抜ける」と評価するのは消費者、レビュアーの側の感想であり、クリエイター側が発する言葉ではありません。現に、AVのパッケージに「抜ける」なんて宣伝文句を見たことがない。(くまなく探せばあるだろうが、それにしても少ない)。

一方の映画はどうでしょうか。一時期より少なくなったとはいえ、いまだに「泣ける」ことを全面に押し出す宣伝文句の多いこと。それは、製作者側の意図を無視した、広報や消費者によって、ある意味レッテルを貼られる形で行われています。

これにより、作品としての映画は「泣ける映画」として、消耗品化されて、貶められています。

さらに、世の中があらゆる無駄を排除して合理化に進んでいる以上、この傾向は今後も進んでいくと考えられます。使えるお金は限られているのに、エンターテイメントが氾濫している現代。レビューサイトなどの情報を参考に、「泣ける映画はコスパが良いから」なんて基準で映画を選ぶ人も少なくないでしょう。

別に泣くことを目的に映画を観に行くことじたいを否定はしませんが、映画という作品を消耗品に落としこむような劣悪な宣伝、さらにはクリエイター側が「泣かせる」ことを目的に映画を作るようになっては、映画産業は斜陽に向かうだけです。

まさに、インタビューから前戯から何からを省き、「抜けるシーン」だけのAVの総集編と同じように、じっくりと作品を味わいたい観客ではなく、時間をかけずに気持よくなりたい消費者に向けた、消耗品たる「泣ける映画」が量産される事態が起こりうることになります。「だって、そういう映画にお客はお金を落としてくれるから」という理由で。これを下品と言わずして何と言うのでしょう。

本当に良い映画作品を後世に残すためには、観客であるぼくたちが、本当に良い映画を選ぶ眼を養う必要があるのかもしれません。

 

ということで、まとめ。

幸い、2016年の邦画はほんとうに当たり年で、「泣ける」なんて宣伝しなくても、傑作と呼べる作品がいくつも公開されました。

映画はつねに「作品」であるべきで、泣くための消耗品であってはならない。

来年も、邦画に限らず洋画にも突出した名作が生まれることを望んでやみません。