良い知らせと悪い知らせがある

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「ヒロシマ平和映画賞」に強烈な違和感。『この世界の片隅に』がヒロシマ平和映画賞を受賞。

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11月12日から全国公開となった、片渕須直監督の『この世界の片隅に』が、広島国際映画祭にて、「ヒロシマ平和映画賞」を受賞しました。

おめでとうございます!

natalie.mu

…と、素直に喜べば良いものを、ぼくは強烈な違和感を抱いてしまうんですよ。

『この世界の片隅に』が、賞を授与されるような素晴らしい作品であることは、疑う余地がありません。受賞されたこと自体は、映画を鑑賞して感動に打ち震えたファンのひとりとして、嬉しい限りです。

それでも、なぜ「ヒロシマ平和映画賞」なの?という違和感だけはぬぐえないんです。

 

ヒロシマ平和映画賞とは

広島国際映画祭のホームページには、次のように説明されていました。以下、引用です。

福岡愼二映像文化支援基金により2016年から広島国際映画祭に創設される賞。 映画祭開催期間中に上映される全作品(2015年以降制作された作品)を対象とし、ヒロシマの心を世界に発信することに最も寄与したと思われる作品を制作した者の、さらなる制作活動に対して贈られます。

引用元:http://hiff.jp/archives/3441/

あっ、今年から設立された賞なのか...どうりで知らないわけだ。なんか取ってつけたような賞だなあ。

「ヒロシマの心を世界に発信」って、何なんですかね。教えて、広島の人。

もし「ヒロシマの心」が反戦とか反核なら、『この世界の片隅に』は、たしかに舞台は広島(廣島)、呉だったし、戦時中の話だったことは確かですが、反戦・反核メッセージだけじゃない、それとは違う次元のメッセージを、ぼくはこの映画から受け取ったんですけどね。

ぼく以外の、すでに鑑賞された方に「『この世界の片隅に』って、平和とか反戦を訴えてたよね!」って尋ねたら、だれでも首をひねるでしょ。

片渕須直監督は、「ヒロシマ平和映画賞」の受賞について、次のようなツイートを残されています。

一方で、冒頭に引用した「映画ナタリー」のページでは、次のように書かれています。

片渕は、受賞に際して「映画には空襲の恐ろしさ、原爆の戦禍が描かれている一方、そこには毎日家族のためにご飯をこしらえたすずさんがいる。戦禍が消えるのはまだまだ遠いと思うと残念だが、すずさんの命が報われる世界になってほしい」と思いを明かした。

引用元:http://natalie.mu/eiga/news/209235

「細けえこたあいいんだよ」と言われそうですけど、「ではなく」と「一方」じゃ全然ニュアンス違うでしょ。

後半の言葉も解釈が違うのか、引用した部分が違うのか、実際のところ現場で聞いていたわけではないのでわかりませんが...短い文のなかで「戦禍」という単語を2度も使うのは違和感あるなあ。

さっきのぼくの文章に戻ると、「ヒロシマの心」が反戦とか反核なら、ヒロシマ平和映画賞を授与した人は、『この世界の片隅に』が描いたほんの一部(いやもしかしたら、まったくの曲解で)しか観てないってことになりませんかね。

というか、「ヒロシマ平和映画賞」という文字面だけ見ると、どうしても『この世界の片隅に』が「反戦映画として優れている」として、矮小化されているような気がして腹立たしいんですけど、そんなこと考えるのは余計なお世話でしょうか。

 

そもそも、なぜカタカナ表記の「ヒロシマ」なの

平和映画賞はともかく、ぼくが強烈に違和感をおぼえたのは、「ヒロシマ」というカタカナ表記。「広島国際映画祭」なんだから、「広島平和映画賞」でよくないですか。なぜわざわざカタカナ表記なんですか。すげーざわつくんですけど。

舞台が広島で、かつ平和の尊さを訴えた映画じゃないと、授与されないんですかね!だったら、広島を舞台にした世紀の名作『仁義なき戦い』には絶対に授与されないんでしょうね!(見方によっては平和の尊さを訴えてるとも解釈できそうだけど)

今年から「ヒロシマ平和映画賞」を創設。過去2年以内に製作され、ヒロシマの心を伝える上映作品を表彰する。

引用元:http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=66117

過去2年以内なら『仁義なき戦い』の受賞はないな。まあ、それはいいとして。

広島を「ヒロシマ」と表記することで、被爆した広島、8月6日、反戦、平和といったニュアンスが加味され、地名の広島とは別の意味を持っている...ということは、わかりますよ。ぼくは長崎出身ですから、長崎を「ナガサキ」と書くことで、同じような意味を持っていることくらいは知ってます。

でも、いい加減やめてほしいっすね。よその人が広島、長崎を「ヒロシマ・ナガサキ」と表記するのも、広島県民、長崎県民が「ヒロシマ・ナガサキ」と表記するのも。

長崎で生まれ育った者として、どんな理由付けがされようとも「ナガサキ」という表記が嫌いです。

広島で生まれ育ち、広島を愛していらっしゃる方なら、「ヒロシマ」と表記されることに忸怩(じくじ)たる思いのある方はいらっしゃるはずです。

「ヒロシマ・ナガサキ」という表記をしなければ平和の尊さや反戦反核の意志が訴えられないほど、日本人の意識は低いのか。そうじゃないでしょ、日本人なめんな。

ぼくの考えは捻くれているんでしょうが、こういうカタカナ表記を自治体なりマスメディアなりが未だにこだわり続けていることに、とてつもなく後ろ暗いものを感じるんですよ。

いつまで被害者意識引きずってんすか。本当に目指すべきは、「ヒロシマから広島へ、ナガサキから長崎へ」でしょう。被害者意識から脱却しないで、この先100年200年もまだ続けるんですか。

ちょうどいいタイミングで「三島由紀夫 BOT」がこんなツイートしてたので、引用しておきますね。

あ~三島由紀夫先生のおっしゃるとおりですわ。ぼくの言いたいことは。

で、こういうこと書くと一部の方から「お前は右寄りだ、右翼だ」なんて批判を受けることがあるんですけど、いやいや、冷戦が集結して25年が経ったのに、まだ右だ左だのレッテル貼りですか。いつまで昭和引きずってんすか。昭和脳すか。「ていうか、じゃああんたは左かね」って話で。

 

...だいぶ長いこと脱線しました。

言いたいことは、「ヒロシマ」という特別な意味を含んだ単語を冠した(しかもわざわざ「平和」なんてつけた)賞を『この世界の片隅に』に授与することは、原作に惚れ込み、クラウドファウンディングで、草の根で、映画を制作された片渕須直監督や、原作のこうの史代さんの思いを捻じ曲げることになりやしませんかということです。ぼくは『この世界の片隅に』は、戦時下で様々な喪失を経験しながら、それでも戦争を生き抜いたすずさんに感謝する作品だと思ってるので。

いち映画ファンが制作者の考えを忖度(そんたく)するのはおこがましいですし、火のない所に煙を立てるような、だれも望まない記事を書いてしまいましたが、ぼくが抱いた「違和感」をだれも指摘せぬのなら、ぼくがぼくのメディアで指摘しようと思った次第です。

いや、ぼくが知る常民良民の皆さまは、きっとぼくみたいに捻くれた考えではなく、素直に受賞を祝いでおられると思いますので、『この世界の片隅に』がどんな賞を授与されようとも、それぞれに思いを致されることでしょう。

 

最後に

ぼくは近いうちに3回めの鑑賞に行ってきます。鑑賞後にぼくはこのツイートを残したわけですが、たった1年でも広島・呉市に身を置いた者として、やっぱり特別な感情を持ってしまうんですよね。『この世界の片隅に』という作品には。

今後100年、200年語り継がれるであろう『この世界の片隅に』が、いつか「ヒロシマから広島へ」を実現しうる作品として残ることを願うばかり。

まあ、そんなこと考えずとも『この世界の片隅に』は、2016年の今こそ観ておくべき作品であることは、言うまでもありません。

 

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