良い知らせと悪い知らせがある

良い知らせと悪い知らせがある

本当に良い映画も、良くない映画もレビューします。

新海誠監督が批判に反撃されたので『君の名は。』をレビューしてみる。

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筆者の厳選記事5選

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こんにちは、もとむらはじめ(@motomurahajime)です。

 

公開からすでに4ヶ月近くが経過する『君の名は。』

筆者がブログを開設したのが10月で、その時点ではまだ1回のみの鑑賞。非常に内容の濃い、切り口次第でいかようにも感想が言える作品であり、さらには、時間の経過とともに絶賛評や酷評が飛び交う始末で、なかなか書ききれずにいました。

そこにきてつい最近、こんなニュースが。

news.biglobe.ne.jp


直接名指しはされていませんが、発端となったのはこの方の発言でしょう。

http://articleimage.nicoblomaga.jp/image/72/2016/2/5/2579e7ebc594d8a9792e4c5630ac8d00a6426d8f1475792208-s.jpg


江川達也さんの発言の是非については、「そりゃあ観る人それぞれ感想も違うだろうから、好きに言わせとけば?」と思うと同時に、今回の新海誠監督のカウンターパンチも含め、どうやら大マスコミが話題のとれるニュースとしてけしかけた感があるところに、筆者としては忸怩(じくじ)たる思いがあります。

わざわざプロレス的な構図を作り、面白おかしく消費されるように宣伝してやがるな、と。


この批判する側、される側の構図と、新海誠監督の「だったらやってみろ」という発言で、みなさんが思い浮かべたのは、かの名作CMでしょう。

サントリー BOSS 7 CM (1998年)  アーネスト・ホースト編

www.youtube.com


この頃のBOSSのCMは神がかってましたよね~今となってはこんなCMも観られなくなったのだろうか。

 

それはいいとして... このようなニュースが飛び交うくらいには、『君の名は。』の話題性は年末になってもまだまだ衰え知らず、そして絶賛評も酷評もおおむね出揃ったタイミングで今回の新海誠監督の発言もあり、筆者も『君の名は。』のレビューをアップすることにした次第です。

 

というわけで、以下筆者の都合のいい『君の名は。』解釈とレビュー。

『君の名は。』の着想は?

観た人、感想を書く人でいろいろと「あの作品が元になってるんじゃないか?」とか、万葉集の和歌が重要な意味を持つんじゃないか、といった考察がありますが、『君の名は。』公式ホームページで新海誠監督は次のようにインタビューに答えられています。ちょっと長いですが、引きます。

知らない者同士が、お互いに知らない場所で生きていて、もしかしたら二人は出会うかもしれない存在。現実は会えない、でも、何らかのカタチで触れ合う。
単純だけれど、そんな物語を作りたいという事が今作の動機でした。良く考えてみると、それは、僕たちの日常そのものだと思います。今まさに地方の田舎町で生活している女の子も、将来、都会に住んでいるある男の子と出会うかもしれない。その未来の物語を小野小町の和歌『思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを』(訳:あの人のことを思いながら眠りについたから夢に出てきたのであろうか。夢と知っていたなら目を覚まさなかったものを)を引っ掛かりとして、アニメーションのフィールドの中で描く事が出来ると思いました。その後は、「夢の中で入れ替わる」ことを軸に「彗星」や「組紐」など様々なモチーフを交えながら作品としての構成を組み立てました。

出典:http://www.kiminona.com/interview/01shinkai.html

 

ここで語られていることが『君の名は。』の脊髄でしょうね。

冒頭に登場する万葉集の和歌『誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ』という和歌、さらには神、神社、巫女といった日本の神道的な要素を加え、全体的に「現代版の日本神話」的な物語に仕上がっているのが『君の名は。』

それは『古事記』や『日本書紀』に描かれたスサノオノミコトがヤマタノオロチを退治し、クシナダヒメを救う伝説のようであり、二人の心情や日本の情景を「和歌を実写化したような美しい映像」で見事に彩っているところからも、おおむねズレてはいないでしょう。

詳しくは映画評論家の町山智浩さんが解説されています。有料の音声動画ですが、一聴の価値ありです。

tomomachi.stores.jp


さらに、「新海誠監督は『君の名は。』をヒットさせるために作家性を捨てた!」という批判がありますが、筆者は「捨てた」というよりも、あえて言うと「これまでの新海誠的作風の呪縛から一歩踏み出した」のが『君の名は。』だと思っています。

あとで詳しく述べますが、この呪縛からの解放は、新海誠監督の作品に象徴的に登場する「電車」と「電車に乗る主人公たち」の使われ方で読み取ることができます。

 

批判の全てはパンフレットを読んで解決?

「瀧くんが大災害のあった地域のことを知らないなんて不自然」
「入れ替わってるときにどうして電話で会話しなかったの」
「入れ替わりのルールがブレている」
「ご都合主義乙」

こういった批判があちらこちらから挙がっていますね。筆者も初見のときは同じようなことを思いました。タイミング的に『シン・ゴジラ』公開の後だったこともあり、アニメであろうが特撮であろうが、物語的なリアルさにこだわっていたタイミングでもありますので。

そういった批判に先駆けて?『君の名は。』のパンフレットで新海誠監督は次のように発言されています。

僕自身はまがりなりにも演出家のはしくれとして、たとえ一部の要素が崩れたとしても作品としては成り立つという設計図を最初にきちんと作っていたつもりなんです。

ものづくりをしていけば、ほころびが出てくるのは当然です。筆者もまがりなりに前職でクリエイティブな仕事をしていたこともあり、「あちらを立てればこちらが立たず」というのはしょっちゅう。時間や予算の関係で、製作年月を何年も引き伸ばすわけにもいかない。いずれは折り合いを付けなければならないんですよね。

ジュブナイル、ラブストーリー、ディザスター、ヒロイック・ファンタジーなどなど、大衆に受けそうな要素がてんこ盛りという見方もでき、それがほころびを起こしているところは散見されましたが、ライムスター宇多丸師匠の言葉を借りれば、「チューニング」。非常に高い精度でほころびをチューニングしていたのは確かです。

www.tbsradio.jp

 

「まあ、それは夢の話なんだし、覚えてないんじゃない?」みたいに力業で押し切ることもできるし、そういったほころびすら凌駕するほどの感動作に仕上がっていることは言うまでもありませんね。

重箱の隅をつつけばいくらでも出てきますが、そこはおのおの批判するなり都合よく解釈すればいいんじゃないかな、と思います。

 

「3年のズレ」は序盤から伏線が張られている

「瀧くんと三葉の入れ替わりに、実は3年のズレがある」

物語のなかではっきりと明示されるのは中盤、入れ替わりができなくなって以降。

でも、画面の隅から隅まで目を凝らして観ていると、じつは序盤から入れ替わりに「3年のズレ」があることがほのめかされています。

【三葉】てっしーの家の台所のカレンダー

http://eiga-to-dorama.com/wp-content/uploads/2016/08/041c8e89b678b46731ac2144bc87c2e7-1-500x281.jpg

三葉の親友であるてっしーの家で、てっしーのお父さんと三葉のお父さんが飲んでいるシーンにご注目。談合?している二人の話を盗み聞きするてっしーが「腐敗の臭いがするのう」というセリフを発するシーン。

彼のいる台所の食器棚(画像、てっしーの背後にある)にカレンダーがかけてあり、そこには「2013」と書いてあります。


【瀧くん】教室のドアに貼られた文化祭のポスター

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/kanreki7/20160909/20160909215333.png

三葉が瀧くんと入れ替わり、初めて瀧くんが通う高校の教室に入ってくるシーン。教室のドアに文化祭「神宮祭」のポスターが貼られており、そこに書かれているのは「2016」。


その他にも、たとえば三葉の世界では彗星のニュースで持ちきりなのに、瀧くんの世界では彗星のニュースがまったく流れていないとか、瀧くんが奥寺先輩とのデートの後で三葉から届いたメッセージを読むシーンで、「今日は彗星がよく見えるね」(うろ覚え?)という三葉のメッセージに対し、「何言ってんだ」と彗星のことは意に介さない様子であるところ。


こういったわずかな背景やセリフに隠された伏線に気づけば、後半明らかになる「違和感」や「急展開」が序盤から早々にわかってしまうわけですね。さすがにここまで注意深く観る必要はないですが、2回目以降の鑑賞では注意していみるのも良いかもしれません。

 

ユキノ先生登場の意味は?

新海誠監督の前作『言の葉の庭』のヒロイン、雪野先生が三葉の高校の国語教師として登場しているのは周知のことかと思います。

『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない』で言うところの空条承太郎ですね。登場回数の少なさで言ったら第5部の康一くんのほうが近いかもしれませんが。

そういえば、超能力を持つ宮水家の血筋はジョースター家と同じですね。(しつこい)

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ヨキノ先生の登場は新海誠ファンへの粋なサービスという捉え方もありますが、もう少し筆者の解釈で彼女の登場にファンサービス以上の意味づけをすれば、先に書いた承太郎や康一くんのような「2つの物語の橋渡し役」でしょう。

メタ的に言うと、『君の名は。』が瀧くんと三葉、運命のふたりが「結び」によって出会い、運命を変えていく物語であるとすれば、『言の葉の庭』で教師と生徒という立場を超えず、けっきょく主人公・タカオと結ばれることのなかったユキノ。

新たな物語の紡ぎ手のひとりである三葉に「新しい物語を紡いでほしい」という思いとともに、『君の名は。』のテーマそのものでもある万葉集二二四〇番『誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ』を三葉に託す、その役割として登場したと解釈したら...物語がグッと深みを増すと思うんですね。

さらに、『誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ』の解釈は、

「誰だあれはと 私のことを聞かないでください九月の露に濡れながら 愛しい人を待っている私を」

が一般的。

ユキノ先生の古典の授業のシーンで三葉が見つけたものとは... 

https://pic.prepics-cdn.com/6d3ad73693b51/61249238.jpeg


この演出は上手いなあ~

二人の心の距離感を表すシーンですよ。


あくまでも筆者の解釈ですが、新海誠監督がファンサービスだけでユキノ先生を登場させることもないだろうということで、自分なりに面白くなりそうな解釈をつけてみました。

 

二人がたどる運命は「電車」や「組紐」で明示されている

http://komekami.sakura.ne.jp/wp-content/uploads/p4026258-500x375.jpg

後半、物語が複雑に入り組んでわかりにくくなってきますが、新海誠監督の作品で毎回印象的に描かれる「電車」や「線路」、そして本作のキーアイテムである「組紐」こそが、『君の名は。』の時間軸設定と密接に関わっています。

劇中では瀧くんin三葉が一葉おばあちゃんから組紐の由来を聞いたことで、複数の糸が折り重なっている組紐=絡み合う時間ということに気づく。

一方、電車はそのまま目的地へ行くこともできるし、乗り換えすることでまったく違う場所に行くことができる。映画評論家の町山智浩さんは、『君の名は。』そして新海誠監督作品では、電車は登場人物の運命そのもので「登場人物が電車に乗っているシーン=登場人物がたどる運命そのもの」の暗示であることを指摘されています。

 

組紐=時間を超えてふたりを結びつけるアイテム
電車=交差するふたりの運命

 

であるとすれば、三葉が瀧くんに組紐を渡すシーンはやはり電車(それぞれの運命が交差するところ)でなければならず、ふたりを結ぶもの=組紐を渡すことで三葉の運命を瀧くんが握ることになるわけですね。自動車や飛行機じゃダメなんです、ふたりが邂逅する場所は。

さらにラスト、これまでの新海誠監督の作品ではあり得なかったことが起こりますね。『秒速5センチメートル』や『言の葉の庭』を観ている方なら気づくかと思いますが、すれ違う電車のなかでお互いを見つけた瀧くんと三葉は、なんと途中下車するんです。


過去の新海誠監督の作品なら、レールの敷かれた運命に抗わず、電車を降りて走り出すこともなければ、会おうともしなかった主人公たち。それが新海誠監督の作風というか、これまでファンに支持されていた部分でしょう。

それが、『君の名は。』では、瀧くんも三葉も電車を降りて(自分たちの運命に抗って)、会おうとする。

おそらく、『君の名は。』がこれまでの新海誠監督の作風を100%継承していたならば、2人は会わずに電車の向かうままに身を任せていたでしょう。(あるいは、隕石が落ちた時点でモノローグが入り、上映終了)

そこにきて『君の名は。』のラストのイレギュラーな展開は、意地悪い言い方をすれば「大衆の好みに寄せた」のかもしれませんが、筆者としては、新海誠監督の引き出しの多さ、奥深さ、新たな挑戦の表明...のようなものを感じました。


ちなみに、ラストでふたりが出会う階段の脇に「須賀神社」と書かれた石塔がありますが、須賀神社に祀られているのは「スサノオノミコト」。

『君の名は。』=ヤマタノオロチ伝説と解釈すれば、ふたりが違和感なく出会える場所で、かつ新宿が舞台となれば、ここは絶対に外せないですね。まあ、あくまで解釈のひとつです。

 

全体のレビュー

初見で観たときはストーリーを追うので精一杯。2回めの鑑賞では細部に目を配る余裕が出てきたので、「解釈の余地」が非常に豊富にあることに気づけたのは収穫でした。

『シン・ゴジラ』もそうでしたが、「あれってこういう意味だよね?」「◯◯のオマージュだよね?」と語り合える作品というのは、良い作品であることは間違いありません。


どうしてもライトな客層を巻き込んでの国民的なヒットになったことがノイズになりがちなので、ここで筆者が大好きな『イップ・マン 序章』にてドニー・イェン兄貴が演じるイップ・マンのセリフを借りて...

「良い拳法は老若男女を問わない」

良い映画は老若男女を問わない、ということで。


それから言及しないといけないのは、やっぱりアニメーション。

最高峰の人材を揃えた、まさに「日本版ピクサー」ともいうべき布陣で臨んだだけあって、ポップで現代風だし、スルスルと動くキャラクターは観ていて気持ちがいいですよね。

細かいですが、自動販売機から缶が出てくるシーン、電車のドアが開くシーンの躍動感は、「無機物であっても、アニメならこんなに表情豊かに表現できるのか」と驚くくらいフレッシュだったし、美しい満点の星空、災害をもたらす妖しく美しい彗星、糸守町の湖、山脈など、まるで和歌をそのまま映像化したような画はうっとり陶然とするレベル。

 

ストーリーの面では、矛盾点だったりご都合主義だったりがなくはないのですが、それら「ほころび」が気にならないほどのアニメの美しさや緻密な設定、なにより主人公ふたりの演技で膨大な感動を味わえる作品ですから、素直に乗っかって『君の名は。』を楽しんだもん勝ちです。

いろいろ書き足りないところはありますが、3回めの鑑賞のあとでまた「チューニング」させていただきたいと思います。今回はこのへんで。

 

おまけ

象徴的に描かれるラストの桜、夢のなかで出会っていた男女、瀧くんがこだわる就職先は建設会社... という要素で「これとすげー似てない?」と思ったのが、ケツメイシの「さくら」のPV。

www.youtube.com

非常に類似点が多く、筆者は瀧くんと三葉がラストで出会うんだけど、これまでの新海誠監督の作風になぞって、「最後はけっきょく結ばれない」時間軸の物語として観ることもできるんじゃないかな、と。
このころの鈴木えみさんは神がかり的な美しさよ。あなたが神か。